<激しかった撮影現場、映画の王道を学んだ50代>
Q キャリアを拝見すると50代はものすごく関わった作品の本数が多いですね。
映画の撮影監督をやって、40年近くになります。カメラマンを目指したのは、若い時に見た映画で、『飛べない沈黙』(1966;黒木和男監督)の印象があったから。カメラは鈴木達夫さんでした。今見ると映画としては素人臭い部分があるけれど、手持ちカメラで森のなかの蝶を追っかけたり、ドキュメンタリーぽい撮り方で繋がりのなかでのそのシーンがとても新鮮でしたね。
本格的にカメラマンとしてスタートしたのが30歳くらいでした。僕は始め松竹の社員だった時代が17年位あるのですが、そのあと『聖女伝説』(1985)から松竹の専属契約の形で5年位、その後フリーになりました。奥山和由さん(元松竹プロデューサー)と仲が良かったから、その後も結果的に松竹の作品が多くなったのかもしれません。
50代は伸び盛りというか脂が乗り切った時期ではあると思います。僕の50代にあたる1995~2004年は、劇場映画16本とビデオなども撮っています。映画だけでみると年間2作品はやってますね。自分ではあまりがむしゃらに働いたという記憶はないけど。振り返ってみると結構撮ったんだなという感じがします。50代はフリーになって松竹とは毛色の違う作品に関わって、少しづつ名前も売れ出した時期でもあります。松竹のイメージはホームドラマや女性映画、現場も非常に紳士的で静かに進めていく感じなんですね。プログラム・ピクチャー(*低予算、早撮り、娯楽作品)とも云われますが、僕は新しい機材を使ったり、作品ももっと毛色の違うものを自由にやりたかった。若かったせいもあったのでしょうが、これがフリーになった動機でもあるんです。そこで会社にフリーになりたいって言ったら、少しごたごたしました。結局『座頭市』(1989;勝新太郎監督)の時に現場で辞表を書いた覚えがあります。そのあとは、『おろしや国酔夢譚』(1992;佐藤純彌監督)や『夢の女』(1993;坂東玉三郎監督)などを撮らせてもらって、新しい蓄積が出来ていきました。
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