2014年7月30日水曜日

撮影監督 長沼六男氏

1945年(昭和20年)、生まれ。長野県出身。1968年に松竹大船撮影所入社。高羽哲夫、阪本典隆、両カメラマンの撮影助手として数多くの作品に参加。以後ATG作品『新・人間失格』(1978)でカメラマンデビュー。前田陽一監督作『土佐の一本釣り』(1980・松竹)で一本立ちを果たす。その後、相米慎二、勝新太郎、佐藤純彌、成島出など多くの監督作品に参加する。1993年高羽カメラマンから誘われて『学校』から山田洋次監督組に参加。『男はつらいよ 寅次郎紅の花』(1995)を最後に急逝した高羽カメラマンに代わり山田組の撮影監督として『虹を掴む男』(1996)『たそがれ清兵衛』(2002)『母べえ』(2008)などを務める。『おろしや国酔夢譚』(1992)『武士の一分』(2006)で日本アカデミー賞最優秀撮影賞を受賞。2003年に紫綬褒章受章。日本映画撮影監督協会会員。

<激しかった撮影現場、映画の王道を学んだ50代>

Q キャリアを拝見すると50代はものすごく関わった作品の本数が多いですね。
映画の撮影監督をやって、40年近くになります。カメラマンを目指したのは、若い時に見た映画で、『飛べない沈黙』(1966;黒木和男監督)の印象があったから。カメラは鈴木達夫さんでした。今見ると映画としては素人臭い部分があるけれど、手持ちカメラで森のなかの蝶を追っかけたり、ドキュメンタリーぽい撮り方で繋がりのなかでのそのシーンがとても新鮮でしたね。
本格的にカメラマンとしてスタートしたのが30歳くらいでした。僕は始め松竹の社員だった時代が17年位あるのですが、そのあと『聖女伝説』(1985)から松竹の専属契約の形で5年位、その後フリーになりました。奥山和由さん(元松竹プロデューサー)と仲が良かったから、その後も結果的に松竹の作品が多くなったのかもしれません。
50代は伸び盛りというか脂が乗り切った時期ではあると思います。僕の50代にあたる19952004年は、劇場映画16本とビデオなども撮っています。映画だけでみると年間2作品はやってますね。自分ではあまりがむしゃらに働いたという記憶はないけど。振り返ってみると結構撮ったんだなという感じがします。50代はフリーになって松竹とは毛色の違う作品に関わって、少しづつ名前も売れ出した時期でもあります。松竹のイメージはホームドラマや女性映画、現場も非常に紳士的で静かに進めていく感じなんですね。プログラム・ピクチャー(*低予算、早撮り、娯楽作品)とも云われますが、僕は新しい機材を使ったり、作品ももっと毛色の違うものを自由にやりたかった。若かったせいもあったのでしょうが、これがフリーになった動機でもあるんです。そこで会社にフリーになりたいって言ったら、少しごたごたしました。結局『座頭市』(1989;勝新太郎監督)の時に現場で辞表を書いた覚えがあります。そのあとは、『おろしや国酔夢譚』(1992;佐藤純彌監督)や『夢の女』(1993;坂東玉三郎監督)などを撮らせてもらって、新しい蓄積が出来ていきました。

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