2014年7月30日水曜日

撮影監督 長沼六男氏 2

                                          
     Q 50代目前、1993年から撮影を担当した山田組。
映画『学校』で大先輩である山田洋次監督との付き合いが始まります。僕がフリーでやってきた仕事の評判を山田組のスタッフや監督が聞きつけて、当時の山田組のカメラマンが体調を崩したので僕が代りに入っていったのがきっかけでした。以後、50代は山田組の作品でほとんど埋まっていますが、まあ忙しいなんて思ったことは全然なかったですね。カメラだけではなく、山田監督の場合は企画から声が掛かってスタートするんです。神楽坂の旅館に監督に呼ばれて行ってみたら「こんな場所あるか探してくれない?」とか「次はここでやりたいから見てきてよ」とかね。まあ山田さんから比べればまだ若い僕が新鮮だったんじゃないですか。やんちゃだった40代後半から50代に入り「山田組という映画の基本・王道」を体験出来たことはすごく貴重だったと思います。
山田さんはとにかくきっちりとリハーサルをするんです。今でこそ雰囲気は多少丸くなったけど、僕がやりだしたころの山田さんは、こいつはダメだと思った役者は徹底的にしごくというか、結構きつい演出をしていました。割とキャリアのある俳優さんにも「うわぁそこまで云うか」という感じ。演技が上手い下手とかじゃない。何か流れに合わない、本を読み違ってるとか、自然じゃないとか・・・そこをつくのです。
僕自身もフリーになったばかりのころは大作が多くて気合が入っていたせいか、下品な撮影というか荒っぽい現場が多かったです。怒鳴ったりとか、手や足が出たり。ここは、松竹時代と違って「俺は俺のやり方がある」という感じで、僕もガンガン行ってたな。ある現場で同期の助監督とケンカになったときは山田さんが止めに入ったこともあります。 「六さん、もっとおおらかでいいんじゃない」 とか言われて。まあ全然直らなかったけどね。その頃、助監督だった人に会うと、「長沼さんは怖かった、嫌だった」って皆云うんですよ(笑)。まあ今考えると恥ずかしいくらい無茶してましたね。でもそれだけ気分が沸騰していたからいろんな物を学び取ることが出来たんだと思うね。激しい50代に山田組を通じてわかった「映画の王道」を、これからも歩んでいった方がいいと思います。 

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