2014年7月30日水曜日

撮影監督 長沼六男氏 3



  Q考えるカメラマンの仕事

映画の王道というのは、技術や小手先に頼らないこと。
まずは観客がどう思うか、観客にどう訴えていくかなんです。本(シナリオ)に書かれていることをどう観客に伝えるか。
カメラマンはそれを<絵として>どう伝えるかが仕事なんです。どうしてもカメラマンというのは恰好つけるところがあるんだな。内容とは関係ないとは云わないけど、観客はそんなものは見たくないよってものを、「俺はこう撮る」という具合に自分がやりたい事をやっちゃうところがあります。どこかで同業者を意識するというか、奇をてらうんですね。でも映画ってそんなものじゃない。その事に気が付いたのが50代だった気がします。基本はお客さんに1800円払ってもらって映画を見てもらう、それでいい気分になるか、涙を流すか、笑うか、色々あるけれど、観客の心をどれだけつかめたか、それが大事なんです。監督がこんな珍しいことや新しいことをしたとか、カメラマンがこんな技術を使った、ということではないんです。
この先は「映画の王道」の中でまだまだ挑戦、まだ伸びようとするパワーはありますね。体力面でみても、僕は田舎者の頑丈さや動物的な勘では優れていると思っていますよ。酒は昔からあまり飲みませんが、現場では誰よりもよく食べるし、タバコは20代から50代後半までバカスカ吸っていました。7年位禁煙していたけれど『沈まぬ太陽』(2009)からタバコが復活しています。でも特に問題はない。体力といっても、スポーツは全然縁がありません。中年になったからって、健康のために歩こうとするのは大嫌いなんだよ。僕も健康ではありたいけど、だから歩いてもいいけど、腕を振りながらウォーキングしたり、ジムなんか行くかって!思っているわけ。自分がそんな頑張っている姿を人に見られるのは恥ずかしい、というか、気持ち悪い。撮影現場でもそうだけど、見た目には普通にやっているようにみせて、実はやることはやってるというのがいいと思うけどダメかな。充実した50代は40代に頑張った結果、60代の今は50代の蓄積が現在に繋がっている。まあまだやりたいこともあるし、これからも体力がある限り需要がある限り暴走しようと思ってます(笑)。

撮影監督 長沼六男氏 2

                                          
     Q 50代目前、1993年から撮影を担当した山田組。
映画『学校』で大先輩である山田洋次監督との付き合いが始まります。僕がフリーでやってきた仕事の評判を山田組のスタッフや監督が聞きつけて、当時の山田組のカメラマンが体調を崩したので僕が代りに入っていったのがきっかけでした。以後、50代は山田組の作品でほとんど埋まっていますが、まあ忙しいなんて思ったことは全然なかったですね。カメラだけではなく、山田監督の場合は企画から声が掛かってスタートするんです。神楽坂の旅館に監督に呼ばれて行ってみたら「こんな場所あるか探してくれない?」とか「次はここでやりたいから見てきてよ」とかね。まあ山田さんから比べればまだ若い僕が新鮮だったんじゃないですか。やんちゃだった40代後半から50代に入り「山田組という映画の基本・王道」を体験出来たことはすごく貴重だったと思います。
山田さんはとにかくきっちりとリハーサルをするんです。今でこそ雰囲気は多少丸くなったけど、僕がやりだしたころの山田さんは、こいつはダメだと思った役者は徹底的にしごくというか、結構きつい演出をしていました。割とキャリアのある俳優さんにも「うわぁそこまで云うか」という感じ。演技が上手い下手とかじゃない。何か流れに合わない、本を読み違ってるとか、自然じゃないとか・・・そこをつくのです。
僕自身もフリーになったばかりのころは大作が多くて気合が入っていたせいか、下品な撮影というか荒っぽい現場が多かったです。怒鳴ったりとか、手や足が出たり。ここは、松竹時代と違って「俺は俺のやり方がある」という感じで、僕もガンガン行ってたな。ある現場で同期の助監督とケンカになったときは山田さんが止めに入ったこともあります。 「六さん、もっとおおらかでいいんじゃない」 とか言われて。まあ全然直らなかったけどね。その頃、助監督だった人に会うと、「長沼さんは怖かった、嫌だった」って皆云うんですよ(笑)。まあ今考えると恥ずかしいくらい無茶してましたね。でもそれだけ気分が沸騰していたからいろんな物を学び取ることが出来たんだと思うね。激しい50代に山田組を通じてわかった「映画の王道」を、これからも歩んでいった方がいいと思います。 

撮影監督 長沼六男氏

1945年(昭和20年)、生まれ。長野県出身。1968年に松竹大船撮影所入社。高羽哲夫、阪本典隆、両カメラマンの撮影助手として数多くの作品に参加。以後ATG作品『新・人間失格』(1978)でカメラマンデビュー。前田陽一監督作『土佐の一本釣り』(1980・松竹)で一本立ちを果たす。その後、相米慎二、勝新太郎、佐藤純彌、成島出など多くの監督作品に参加する。1993年高羽カメラマンから誘われて『学校』から山田洋次監督組に参加。『男はつらいよ 寅次郎紅の花』(1995)を最後に急逝した高羽カメラマンに代わり山田組の撮影監督として『虹を掴む男』(1996)『たそがれ清兵衛』(2002)『母べえ』(2008)などを務める。『おろしや国酔夢譚』(1992)『武士の一分』(2006)で日本アカデミー賞最優秀撮影賞を受賞。2003年に紫綬褒章受章。日本映画撮影監督協会会員。

<激しかった撮影現場、映画の王道を学んだ50代>

Q キャリアを拝見すると50代はものすごく関わった作品の本数が多いですね。
映画の撮影監督をやって、40年近くになります。カメラマンを目指したのは、若い時に見た映画で、『飛べない沈黙』(1966;黒木和男監督)の印象があったから。カメラは鈴木達夫さんでした。今見ると映画としては素人臭い部分があるけれど、手持ちカメラで森のなかの蝶を追っかけたり、ドキュメンタリーぽい撮り方で繋がりのなかでのそのシーンがとても新鮮でしたね。
本格的にカメラマンとしてスタートしたのが30歳くらいでした。僕は始め松竹の社員だった時代が17年位あるのですが、そのあと『聖女伝説』(1985)から松竹の専属契約の形で5年位、その後フリーになりました。奥山和由さん(元松竹プロデューサー)と仲が良かったから、その後も結果的に松竹の作品が多くなったのかもしれません。
50代は伸び盛りというか脂が乗り切った時期ではあると思います。僕の50代にあたる19952004年は、劇場映画16本とビデオなども撮っています。映画だけでみると年間2作品はやってますね。自分ではあまりがむしゃらに働いたという記憶はないけど。振り返ってみると結構撮ったんだなという感じがします。50代はフリーになって松竹とは毛色の違う作品に関わって、少しづつ名前も売れ出した時期でもあります。松竹のイメージはホームドラマや女性映画、現場も非常に紳士的で静かに進めていく感じなんですね。プログラム・ピクチャー(*低予算、早撮り、娯楽作品)とも云われますが、僕は新しい機材を使ったり、作品ももっと毛色の違うものを自由にやりたかった。若かったせいもあったのでしょうが、これがフリーになった動機でもあるんです。そこで会社にフリーになりたいって言ったら、少しごたごたしました。結局『座頭市』(1989;勝新太郎監督)の時に現場で辞表を書いた覚えがあります。そのあとは、『おろしや国酔夢譚』(1992;佐藤純彌監督)や『夢の女』(1993;坂東玉三郎監督)などを撮らせてもらって、新しい蓄積が出来ていきました。